論説文を初等教育段階から得意にしていく方法 (6)


~その6:「要点のつかみ方」を学ぶ(その3)~

今回も、「要点のつかみ方」を学んでいきましょう!
連載第6弾です。

(1)与えられた文章(本文)を100%理解する必要はない

前回までは、要点のつかみ方について私は、接続表現に加えてキーワード・キーフレーズに着目することの大切さを述べてきました。今後もまた、要点をつかむ方法を述べますが、その前に今回は少し“一休み”して大切な点を確認しておきます。それは、論説文の問題が与えられたとしても本文の内容を100%理解する必要は決してない、ということです。そのために、私は「要点をつかむ」ということを特に強調してきました。要点をつかむとは、その文章の大まかな輪郭や骨格を理解して、とりあえず設問に答えることができる状況にしておくことを指します。換言すれば、与えられた文章の内容における枝葉まで寸分違わず理解する必要はまったくないという意味です。

しかし、この点については実は、ほとんどの保護者の方・生徒諸君は「わかっているようで、本当はわかっていただいていない」というのが現状ではないでしょうか。したがって、ここで再度確認しておきたいと私は思います。その原因は恐らく、伝統的な精読主義にあると考えられます。精読とは、いうまでもなく「細かいところまで、丁寧に読むこと」であり、熟読とほぼ同じ意味でしょう。また、「読書百遍」という言葉もあり、難解な文章でも繰り返し読めば意味が自然とわかってくるという考え方は、今も文章を読む際の基本姿勢のように思われている向きがあります。

むろん、この読書の姿勢は正しいと私も思います。すぐれた作品を何度も読み返す行為をつづければ読者は筆者の主張を理解するだけではなく血肉とし、場合によっては今後の人生に大きな影響を与えるかもしれません。しかしながら、ここで気をつけねばならない点は、受験という視座です。すなわち、論説文の問題においては、あくまで受験で高得点を採ることが目的であるということです。このような視座から論説文を見るとすれば、与えられた本文を100%理解する必要はありません。

では、なぜ、そのようなことがいえるのでしょうか。この理由について、私は次のような考えをもっています。

(2)論説文の問題で与えられる文章は非常に高度な内容である

論説文の問題で与えられる文章は、だいたいにおいてハイレベルな研究者や専門家が書いた作品です。そうであるならば、私たちのような一般の人間もしくは素人が試験時間というごく短い時間内で全内容を理解することの方が、むしろ不思議ではないでしょうか。

だいたい一人の筆者がある文章を書く場合、それに至る過程で綿密な資料収集や実験・観察を経て、さらに深い思索を繰り返し重ねた末に文章化されます。その思索においては、筆者は自己の主張に客観性を持たせるために、想定される疑問や批判その他の不安材料を様々な角度から精査し検討していきます。なぜならば、論説文の文章に採用され記載される筆者では著名な作家や学者が多く、それなりの完成度を有する作品が当然のように期待されるからです。すなわち、練りに練って一作品を完成し発表しているのです。とすれば、このようなハイレベルの筆者によるハイレベルの思索の産物である非常に高度な内容を、たかだか1時間程度の試験時間内で完全に理解できる方が不思議であると私は思います。もしそうであれば、逆に国語という教科を学ぶ必要もないでしょう。

むろん、まったく何も理解できない状況は困りものですが、そこは要点を捉えられれば“良し”とすべきではないでしょうか。乱暴な言い方かもしれませんが、これが現実であると私は考えます。

(3)論説文の問題で与えられる文章は、ある文章の一部である

論説文の問題で与えられる文章は出題者が、ある研究者や専門家の書いた論文や著書から作問の都合上、一部を引用したり改変したりしています。ということは、私たちの見る論説文は、元の筆者にとっては不自然な「一部利用」であることになります。この点に関しては、以前に筆者の趣旨とは違う作問が行われて作成責任者の学校にクレームが来たという珍事もあったくらいです。そうであるならば当然、問題の作成責任者も著者の当該文章における意図や趣旨を十分に理解していなかったということになります。作成責任者はいうまでもなく国語の担当者のはずです。このような作成責任者も理解していない文章を、受験生が理解できるはずはないでしょう。

さらに、もっと大切なことがあります。これは当たり前のことですが、引用文の作者は論説文の問題用に作品を書いたのではないという点です。作者は、あくまで単行本や雑誌などの出版物として当該文章を書いているはずです。ならば、その一部を引用したり改変したりされる状況などは当初の想定にはなかったということになります。そうなってきますと、それはますます不自然な一部利用ということになってしまします。極端な例を挙げれば、それは盗聴された音声記録の一部を意図的に使われてしまい、第三者から誤解を受けるようなものです。

このような論説文の文章であるならば、受験生は与えられた文章の要点を捉え設問に的確に解答できれば“良し”とすべきではないでしょうか。そこには、「文章の内容がよくつかめない」といった神経質な発想は無用であるといえます。

(4)文章の中には、好きになれない記述内容や表現技巧がある

与えられた文章の記述内容や文章中の語彙・表現技巧には筆者独特のクセがあり、詠み手にとって「好きになれない」ものも時にはあるという点です。例えば、漢字と仮名の配分などもこの「好み」に大きな影響を与えます。 また、扱っているテーマにも興味の有る無しが当然起こります。これは要するに、その文章を採用した問題の作成者の主観的な好みが強く反映されていといえます。そうなってきますと問題を解く側にとっても、やはり主観的な好悪の判断となりますから、与えられた文章を読む気も起こらないという事態も生じるわけです。

私も40年近く国語の受験指導に当たっていますが、論説文の文章の中には、読んでいくのに抵抗を覚えるものも多々あります。それは文章が悪文であるとか主張が気に入らないとか云々ではなく、要するに筆者の語彙や表現技巧上のクセが自分の感覚に合わないというだけのことです。これは、いわば多種多様な文章を扱わなければならない国語の宿命ともいえます。したがって、このように考えますと、与えられた試験時間内で文章の内容を完璧に理解することは難しいといえます。ならば、やはり受験生は与えられた文章の要点を捉え設問に的確に解答できれば“良し”とすべきではないでしょうか。

(5)論説文の問題を解くことは、いわゆる読書ではない

問題を解くということは、いわゆる読書ではありません。確かに、読書は大切な知的営みです。読書では、文章をじっくりと読みこ込んでいくことが大切です。読書の効用についてはまた触れる機会を設けますが、本を読むことで語彙も増えて文章にも慣れ、思考力も鍛えられます。論説文の問題を解くときにも、平素より読書に慣れ親しんでいる生徒の方が正答率だけではなく問題を解くスピードも速いようです。しかし、それにしても、否それだからこそ問題を解くことと読書を一緒くたにしてはなりません。

問題を解くこと、それは限られた時間内に答えを出さなければならないという、 1点の成果を争う戦いです。そのような状況下では与えられた文章をじっくりと読み込んでいく行為そのものに、ほとんど意味はないと考えられます。それは、与えられた問題を解くための手段としての文章の読み込みにすぎません。したがって、そこにあるのは文章の中から、いかに答えあるいは答えのヒントをつかんでいくかという行為あるのみでしょう。この点に関しては、「先に設問を読んでから文章を読め」と指導する先生もいることを考え合わせても了解できるのではないでしょうか。そう考えれば、問題を解くためには、与えられた文章の要点を捉えることができれば“良し”とすべきではないでしょうか。

(6)「完璧主義から要点主義」への割り切りが論説文を得意にしていく

以上のように、論説文の文章については内容を完璧に理解する必要のない点を、私は述べてきました。しかし、それにも拘らず“完璧主義信仰”から未だ抜け出せない方もいるでしょう。そのような方には、とにかく論説文の問題を多く解くことをお勧めいたします。そうすれば、私の主張する要点主義も少しずつわかっていただけるものと確信いたします。

それでは、次回もまた要点をつかむ方法について述べていきます。今回、要点主義について述べたのは、要点をつかむ理由についてどうしても触れておきたかったからです。理由がわかれば一層モチベーションが高まり、要点を捉える力も身につきやすくなっていくことでしょう。

どうもありがとうございました!
次回もしっかりと学びます!

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