論説文を初等教育段階から得意にしていく方法 (2)


~その2:疑問を持って考えてみる~

論説文を得意にする方法は、「疑うこと」?!
連載第二弾です!

(1)「疑うこと」から始める

前回、私は初等教育段階から論説文を得意にしていく方法の第1段階として、「すぐに答え」という発想は捨てるべきである旨を縷々説明いたしました。そこで今回は、その第2段階として、初等教育段階から国語、特に論説文を得意になっていくには具体的にどうすればよいのかを考えてみます。この点に関して、先に結論をいいます。それは「疑うこと」です。

この主張に対して「あれっ」と首を傾げる向きもあるかと思います。そこで、この不審を解くために、ここで論説文というものは何だったのかを再び思い起こしていただきたいと思います。論説文とは、「論説文は説明にあたる部分とそれに対する主張にあたる部分からできている文章」でした。私が注意したいのは、この後半の部分である「それに対する主張にあたる部分」です。この「主張」とは、当然筆者の主張です。筆者は、要するに自己の説を述べているのです。

では、「自己の説」とは何でしょうか。それは当然、今までに他の論者の述べなかった新しい考え、いわば新見解です。なぜなら、既に他の論者が述べている見解をわざわざ文章化して発表しても無意味だからです。そして、その新見解を筆者が述べるにあたって意識するか否かに関わらず行ってきた姿勢が、他ならぬ「疑うこと」です。それは、過去の論者の見解や現状に対して、「他に良い考え方や方法があるのではないか?」と考え実験・観察や資料分析を行い、思索してきた成果であるといえるでしょう。つまり、その出発点は「疑うこと」だったのです。

これを「方法的懐疑」といいます。それは、かつてフランスのデカルト(Rene Descartes 1596~1650)が確固不動の真理に達するために用いた方法であり、その経緯については著書『方法序説』に詳しく書かれています。すなわち、それは真理や真実を知るために「疑う」のであって、決して「疑うために疑う」のではありません。まして、他の研究者の粗探しのための意地悪ではありません。つまり、「正しいこと」を得るために疑問を持って考える行為です。

そこで、論説文を得意になっていくためには、この「疑うこと」から始める方法的懐疑を私は提唱いたします。それでは、さらに具体的にこの方法的懐疑について考えてみましょう。

(2)「あれって本当にそうか?」という目覚めが出発点

これは前回にも書いたことですが、現代社会は情報の高度化が進み迅速かつ確実な「答え」を要求する精神風土にあります。それと同時に「答え」も瞬時にして手に入る社会となっているのではないでしょうか。例えば、インターネットを検索すれば、たちどころに調べたい情報を私たちは手に入れられる日常が当たり前となっています。それらの情報は洪水のごとく時間と空間を占領し、その内容における正誤を判断する余裕を与えてくれません。しかしながら、インターネットの情報には間違いもあると思われますので、本当はしっかりと事実関係を他の資料や専門家に確かめてみる姿勢が求められます。

ここで事実関係の確認などといえば大仰に聞こえますので、次のようなことを私は提案いたします。それは、テレビ番組でも友達との会話でも何でもよいのですが、何か疑問に思ったことを親子で話し合ってみる習慣です。例えば、「テレビであんなことを言っていたけど、太郎はどう思う?」と、親子の会話の中で子どもに問いかけるのです。それに対して子どもが満足な答えを出すかどうかは、この時点ではまったく問題視する必要はありません。要は、疑問について考えるための素材を保護者が用意し、子どもがそれに対して考えてみるという習慣づけが大事なのです。

そして、それが発展的になってくると、今度は子どもの方から「あれって本当にそうか」と逆に保護者に問いかけてくる状況が生まれてきます。さらに、それが発展的になってくると、「他にもっと良い考えがあると僕は思う」となり、最後に「この考えの方が良いのでは・・・」となってくるでしょう。そうなったら、この試みはほとんど成功です。すなわち、子どもが自分で「疑うこと」に目覚めたからです。換言すれば、子ども版の方法的懐疑です。

そうはいっても日常ですぐに疑問について考えるための素材を見つけるのは、そう簡単ではありません。そこで今回から少し高度な内容ですが、私が素材を提供することにいたします。

この素材においては、まず、あるテーマの主張があります。そして、それについて疑っていただきます。ただし、まったく白紙では難しいと思われますので、一応参考となる「【考えるためのヒント】」を付けてあります。しかし、この「ヒント」はあくまで参考であり、「解答例」ではありません。大切な点は、テーマにおける主張について「疑うこと」です。そして、自分なりに「正しい」と思う別の意見を考えてみることです。それでは、これから素材の紹介に入ります。さあ、頑張ってみてください。

(3)疑問について考えるための素材 

【テーマ1】宇宙人とのコンタクトは可能か?

宇宙には、ものすごくたくさんの星があるのだから、その中には地球人のような高度な頭脳を持っている生物が必ず存在しているはずである。したがって、私たちが宇宙人のような地球外生物とコンタクトをとれる可能性は非常に高いのではないか。

【考えるためのヒント】逆にコンタクトをとれる可能性は、非常に低い。

地球が誕生してから、約46億年たっているが、現生人類の直接の祖先といわれるクロマニョン人が現れたのは約4万年前である。さらに文明が誕生したのが約5000年前であるが、人類が地球外生物の存在を科学的な見方で認識でき、技術的に記録できるようなレベル(写真など)に達したのは、今からせいぜい100年前であろう。

この100年という時間の幅は、宇宙の悠久の歴史から考えれば、ほんの一瞬である。もし、宇宙人のような地球外生物も同じ程度の時間をかけて文明を発展させ、その認識能力を高めたとすればどうなるか。

地球人と宇宙人の間でコンタクトをとろうと思ったら、この両者の生きてきた時間帯が重ならなければならない。しかし、宇宙の悠久の歴史から考えて、両者がほんの一瞬同士であれば、その重なる確率は非常に低い。

【テーマ2】スピリチュアリズムでいう「生まれ変わり」の考え方は、はたして正しいのか?

テレビのバラエティー番組などで、いわゆるスピリチュアルな内容を取り扱った場面では、時に次のような説明がなされる場合がある。すなわち、「あなたの前世は○○という人間だった」あるいは、「あなたは前世において、△△という立場でこんな仕事をしていた」等々である。これは、俗にいう「生まれ変わり」というものだ。要するに、人間には仮に前世があった点を認めるとしても、その姿は必ず人間だったということである。果たして、この考え方は正しいのか。

【考えるためのヒント】正しくはない。この考え方は、明らかにおかしい。

仮に百歩譲って人間に前世があって「生まれ変わり」のような現象を認めたとしても、人間以外の生物への「生まれ変わり」は考えられないのであろうか。この地球上には人間以外の生命体は、それこそ数えられないほど存在する。したがって、仮に「生まれ変わり」というプロセスで生命が「現在―過去―未来」というように連続しているとすれば、人間以外の生命体への「生まれ変わり」の方がはるかに確率は高いはずだ。

ある仏典にも「人身は受け難し。爪の上の土なり」という言葉もあり、人間として生まれることの難しさを説いているのである。さらに、かつての仏教信仰では、死んだ家族が「牛馬に生まれ変わっている」という観念が強かったので、明治以前では日本人は家畜を食べなかった事例がある。

加えて、このような「人間の生まれ変わりは人間でしかない」という発想を認めれば、地球の人口は常に有史以来一定に保たれているはずである。しかし、現実はそうなっていない。「人口爆発」という表現があるごとく、地球の人口は増加の一途をたどっている。「人間の生まれ変わりは人間でしかない」という発想では、このような人口の増加をいかに説明するのであろうか。

おそらく、このようなテレビ番組では、「あなたの前世は馬でした」などといえば、その後のトークが成り立たず、「商売」にならないからだろう。

【テーマ3】勉強は何の役にも立たないか?

勉強とは、いったい何のために行うものなのか。どう考えても意味がないと思う。勉強などをしなくても日々の生活には困らないだろうから。例えば、小難しい算数の問題や、歴史上の出来事などは実生活にとってほとんど役に立たないのではないか。

【考えるためのヒント】勉強は、ものすごく役に立つ。

第一に、「考える力」をつけるために役立つ。どの教科もそうであるが、教科書の内容は人類の長い歴史の中で「偉い人たち」が考えに考えて、苦労を重ねて出来上がったものだ。ということは、僕たちが勉強する行為そのものが、その「偉い人たち」の考え抜いた成果に関して学ぶことを意味する。相手は偉い人であるから、その考えにつき従っていく学習を繰り返していけば当然、僕たちの考える力も鍛えられる。

第二に、「情報伝達の手段」を身につけるために役立つ。別の言い方をすれば、それは社会人として生きていくための知識とでもいえるであろう。なぜなら、家族や親しい友人・知人と会話する場合以外の、広く世間一般の人とコミュニケーションを交わすときには、意思伝達のための必要最低限の知識が要求されるからである。意思伝達、すなわち、話す、書く等の行為を自由自在にしていくためには、「えっ、そんなことも知らないの」といわれないようにすることが、まず最低条件であろう。

第三に、「知的な楽しみ」のために役立つ。これは、いわば人間のみが持つ特権といえるであろう。新しいことを知る喜び、問題が解けたときの喜びは、おいしいものを食べている際の喜びとは違う。それは、食べ物という「外」から与えられたものではなく、自分の頭脳の働きという「内」から発せられる喜びである。「あー、そうだったのか」という感動を得るために、私たちは勉強しているのだ。

第四に、「がんばった成果を知る」ために役立つ。すべて勉強では、そのような「がんばり」をとても評価しやすい仕組みにしている。それが、「試験」というものである。試験といえば、「いや!」というイメージもあるが、自分のがんばった成果を数字にしたものだと思えばよい。その点で、勉強ほど正直に努力の報われるものはない。 

どうでしょうか。少しレベルが高いですが、しっかりと「疑うこと」はできたでしょうか。これらのテーマについて、親子で疑問を出し合えるようになり、さらに別の意見を子どもの方から発せられるようであれば、私にとって幸甚の至りです。それでは次回は、また別のテーマを紹介してみます。

ありがとうございました。次回も楽しみですね!

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